
パタンジャリが編纂した「ヨガ・スートラ」は、紀元後2~4世紀頃に成立した古代インドヨガ哲学の最重要文献です。この教典以前にも様々なヨガの教えが存在しましたが、パタンジャリは当時のインドで広まっていた複数の哲学(仏教、ジャイナ教、サーンキャ哲学など)から良い部分をピックアップし、統合的にまとめ上げました。
特に注目すべきは、パタンジャリが「ヨガを科学した」点です。心の働きを極端に客観的な言葉で説明し、書いてある実践法を行えば誰でも同じような体験ができる再現性の高い実践方法として体系化しました。これにより、それまで感覚的で長期間を要していたヨガの学習が、より効率的で理論的なアプローチとなったのです。
パタンジャリの本名や出生地は謎に包まれていますが、伝説によると「パタンジャリ」は「天から降ってきた」という意味で、聖者の手のひらに落ちてきた赤子に名付けられたとされています。これは彼の教えが神聖で普遍的なものであることを象徴的に表現した物語と言えるでしょう。
「ヨガ・スートラ」の最も重要なスートラは第1章2節「ヨーガシュ チッタヴルッティニローダハ(yogaścittavṛttinirodhaḥ)」です。これは「ヨーガとはチッタの活動の制止である」と定義しています。
ここで言う「チッタ(citta)」は、単純に「心」と訳されがちですが、実際には「心、注意、思考、精神」など重層的な意味を持つ複合概念です。インドのヨガ国家資格教科書では「マインドの働き手」「マインドの領域」と説明されており、日本語の「心」概念とは大きく異なります。
パタンジャリによれば、私たちの真の自己(プルシャ)は通常、チッタの活動に埋もれて見えなくなっています。しかし、心の働きをすべて制止し心が絶対的に静穏になった時、はじめて「真実の自己」がわかるのです。これは現代のマインドフルネス瞑想にも通じる考え方で、心の雑念を静めることで本来の自分に気づくプロセスと言えます。
興味深いことに、パタンジャリは心理学的なアプローチも取り入れており、個人の信念や自信(サンスクリットでシュラッダ)がヨガの効果に影響すると述べています。これは現代の自己効力感理論と共通する古代の洞察です。
パタンジャリの教えの中でも特に重要なのが「アシュターンガ・ヨーガ(八支則)」です。これは瞑想を深めるための8つのステップで構成される体系的な実践方法です:
外的実践(バヒランガ・ヨーガ)
内的実践(アンタランガ・ヨーガ)
注目すべきは、ヤマの5つの項目がジャイナ教のマハーヴラタ(5つの大禁戒)と全く同じであることです。これはパタンジャリが他の哲学体系から積極的に学び、統合的なアプローチを取っていたことを示しています。
「ヨガ・スートラ」は全4章195のスートラから構成されており、各章には明確な目的があります:
第1章「サマーディ・パーダ(三昧章)」
ヨガとは何かの定義から始まり、心の状態やサマーディ(三昧)の種類について説明します。ここではヨガの最終目的である「カイヴァルヤ(解脱)」への理解を深めます。
第2章「サーダナー・パーダ(実践章)」
八支則の詳細な説明と具体的な実践方法を示します。日常生活における倫理的行動から身体的実践まで、段階的なアプローチが詳述されています。
第3章「ヴィヴーティ・パーダ(神通力章)」
サンヤマ(ダーラナー、ディヤーナ、サマーディの統合)による超自然的能力について解説します。この章は全4章のうち1章を占めるため、学者の間で議論の対象となっています。
第4章「カイヴァルヤ・パーダ(解脱章)
最終的な悟りの状態について述べ、真我を自己として生きる境地を目指すことを説明します。真我を覆い隠す心が純粋になり、心と真我が区別される状態を詳述します。
パタンジャリが瞑想中心のヨガを体系化した背景には、当時の時代状況があります。紀元後2世紀ごろの時代背景では「ヨガ=瞑想」という概念が中心で、身体的なポーズよりも心の統制に重点が置かれていました。
現代におけるパタンジャリの教えの独自の価値は、心理療法的側面にあります。特に注目すべきは、古代の教えが現代心理学と驚くほど一致している点です。パタンジャリのヨガは「心理学的原理の理論と応用のシステム」として機能し、現代の認知心理学や行動療法との共通点も多く見られます。
また、パタンジャリの教えは持続可能なウェルビーイングの観点からも評価できます。現代社会のストレス管理、自己認識の向上、感情調節など、メンタルヘルスの向上に直接的に応用可能な実践的知恵が含まれています。
興味深いことに、現代のヨガが「身体的エクササイズ」として広まったことで、パタンジャリが本来意図していた「心理学的側面」が軽視される傾向があります。しかし、「ヨガ・スートラ」の真価は、外的な身体的実践を通じて内的な心の変化を促すという統合的アプローチにあります。
パタンジャリの教えのもう一つの独自性は、宗派を超えた普遍性です。仏教、ジャイナ教、サーンキャ哲学など、対立する学派の教えを統合し、どの宗教的背景を持つ人でも実践できる体系として構築されています。これは現代のマルチカルチャル社会において非常に価値のあるアプローチと言えるでしょう。
さらに、パタンジャリは3000年以上前に「エビデンス・ベースド・プラクティス」の概念を提示していました。実践すれば誰でも同じような結果を得られる再現性の高いメソッドとして体系化したことは、現代科学の方法論と驚くほど一致しています。
現代の実践者にとって「ヨガ・スートラ」は、単なる古典テキストではなく、心の仕組みを理解し、より良い人生を送るための実用的なガイドブックとして活用できます。パタンジャリが示した段階的なアプローチは、現代人の忙しい生活の中でも実践可能な智恵の宝庫なのです。