
ブラフマン(ब्रह्मन्、brahman)は、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根理として理解されています。もともとは、ヴェーダの「ことば」を意味する語で、呪力に満ちた「賛歌」「呪句」を表していました。この神聖な呪力(じゅりょく)をもつ「ベーダの語」が原義とされ、やがてそれらに内在する「神秘力」の意味で用いられるようになりました。
インドの正統バラモン教思想における最高の理法として、宇宙の統一原理、万有の根本原理を指します。この力が宇宙を支配すると理解されて「宇宙を支配する原理」とされ、神聖な呪力という概念から、より壮大な宇宙原理へと発展していったのです。
現代のヨガ実践者にとって重要なのは、この概念が単なる抽象的な哲学ではなく、実際の修行体験に基づいた深い洞察であるということです。ヴェーダ聖典では、その言葉を用いて神々を使役することが説かれるため、言葉を意味するブラフマンはそこに説かれる神々よりも上位の概念と見なされるようになったのです。
梵我一如(ぼんがいちにょ)は、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と、個人の本質であるアートマン(我)が本来一つであるという深遠な真理を指し示します。これは単なる哲学的な思弁に留まらず、私たちが抱える根源的な孤独感や分離感、生と死への恐怖から解放されるための実践的な叡智です。
アートマンは、私という一個人の中にある個体原理で、私をこのように生かしている「霊魂」であり、私をこのような私にしている「自我」、もしくは「人格」です。元は「息」を意味した語で、ここから「生気」「霊魂」「身体」「自己自身」「自我」という意味が派生し、ついには「個体を支配する原理」とみなされるに至りました。
ウパニシャッドの哲人たちは、同一視の論理を祭式でなく、瞑想で用いました。瞑想でAをBと同一のものとみなして(ウパースして)意識を集中することで、分別による知を乗り越え、対象が直観される時、主観は対象の中に入り、対象と融和し、対象そのものになって同化するのです。
現代のヨガ実践において、ブラフマンの理解は瞑想の深化に直結します。ヨガ=繋がるという意味であり、「全ては1つ」という共同体感覚を表現しています。自分のいる環境、社会的立場、周囲から見た自分の評価といった外の世界に意識が向き、外の世界との比較で自分を判断しようとする傾向から解放されることが重要です。
瞑想の実践では、「太陽はブラフマンである」「虚空はブラフマンである」といった様々な原理をブラフマンと同一視し、とりわけ気息、目、耳、思考力などの生活諸機能がブラフマンとの同一視の対象とされました。これらの実践は、個体原理アートマンと宇宙原理ブラフマンの同一視に収束していきます。
梵我一如の思想の背景にあるヴェーダ祭式の「同一視の論理」は、瞑想による対象そのものになることで、その対象のもつ力を体得することを目指します。これは現代のヨガ実践においても、深い瞑想状態での意識の変容体験として理解することができるでしょう。
ブラフマンの概念は、現代社会における自律神経の調整やストレス軽減にも深く関連しています。自分と他人を区別し「正か悪かジャッジすることなど、何もメリットは無い」という視点は、現代のマインドフルネス実践にも通じる智慧です。
若い頃に外の世界との比較で作られた自分自身への評価は、自分の居場所が変わるだけで崩れてしまう不安定なもので、自分軸が定まらず自律神経失調症などを引き起こす可能性があります。ブラフマンの理解は、このような外的な評価システムから解放され、内なる本質との繋がりを深めることを可能にします。
大宇宙(梵)と小宇宙(我)の融合合一という考えは、その後の神秘主義思想にくりかえし現れ、仏教でも密教の大日如来の観想による即身成仏には、同じ発想がみられます。これは現代のヨガ練習者にとって、単なる身体的なポーズの練習を超えた、深い精神的変容の可能性を示唆しています。
ブラフマンが神格化されたのが梵天(Ⓢbrahmā)であり、仏教においては釈尊に説法を勧める梵天勧請を行い、また経典においても釈尊の説法を聞く神としてしばしば登場します。この変容は、原始的なヴェーダの呪力概念から人格神への発展、そして仏教的文脈での再解釈という興味深い変遷を示しています。
仏教では、梵(ブラフマン)が人格をともなって梵天として登場しますが、本来のインド思想にあっては、自然そのもの、あるいは遍在する原理、または真理を指していました。これは現代のヨガ実践者にとって重要な洞察を提供します。つまり、ブラフマンは特定の宗教的枠組みを超えた、より普遍的な意識の状態や存在の次元を表しているということです。
梵天は須弥山世界のなかでは色界の初静慮に存在する天とみなされており、これは瞑想の段階的発展における具体的な境地を示唆しています。現代のヨガ練習者は、この理解を通じて自らの瞑想体験をより深く理解し、段階的な意識の発展を目指すことができるでしょう。
仏教の立場から言えば、ヒンドゥー的なブラフマンの至高性は剥奪されていますが、これは異なる精神的伝統における同一概念の多様な解釈を示すものです。ヨガ実践者にとって、この多様性は固定的な概念にとらわれることなく、より柔軟で開かれた意識状態を育むための貴重な示唆となります。